鎌倉御家人チーム

鎌倉に帰順した坂東武士・地方豪族たちをご紹介します。
それにしても平氏系武士の多いこと。
彼らを従えねばならなかった「源氏」の棟梁・頼朝の気苦労がしのばれます。

現在21名
(50音順)
安達盛長安達清経梶原景時梶原景季上総介広常河越重頼
熊谷直実熊野湛増河野通信
佐々木秀義定綱経高盛綱高綱
土肥実平土佐坊昌俊那須与一畠山重忠比企能員三浦義澄和田義盛

安達盛長あだちもりなが
頼朝の世話係恋のキューピット
享年66(1135〜1200)
魚名流藤原氏・中納言山蔭の後裔

通称:籐九郎 /法名:蓮西
役職:上野国奉公人 三河国守護
妻:比企尼(頼朝の乳母)の長女

伊豆に流された少年頼朝にもっとも早くから仕えていた家人。そして頼朝の恋の相手を物色する役目も担っていた?北条政子に頼朝の恋文を渡したのも彼(本当は政子の妹あてだったのだがまちがって政子のもとに)。これがきっかけで頼朝と政子はつき合うことになる。源氏の旗揚げに際しても味方を得るため坂東中を奔走した。頼朝没後は出家して蓮西と号した。のち、息子景盛の妾(京育ちのとびきりの美人)が頼家に略奪された事件のいざこざから幕府に討伐されそうになったが、政子の弁護で切り抜けた。

安達清経あだちきよつね
嬰児も殺す非情のスパイ
享年?(?〜?)
魚名流藤原氏・中納言山蔭の後裔

通称:新三郎

頼朝の雑色。九郎義経の監視役として京に派遣されていた。堀河夜討(義経暗殺作戦)の失敗を報告しにいったん鎌倉に戻った。そののち、訊問のため鎌倉に曳かれてきた静御前を自宅に預かり、その腹に宿っていた義経の子を生まれ落ちるなり奪い取って由比ガ浜に投げ入れて殺した。ひどい話だが、上からの命令に従ったまでの彼を責めるわけにもいくまい…ただ、彼がそんないやな役目に選ばれたということは、頼朝からよほど信頼されていたということの証でもあろう。

梶原景時かじわらかげとき
梶原景時 恐怖のチクリ魔ゲジゲジ男
享年?(?〜1200)
桓武平氏・相模国鎌倉郡梶原の豪族
/息子:景季、景高など
通称:平三

京文化に通じ武力よりも知力に優れた、坂東には珍しいタイプのインテリ武者。頼朝旗揚げの時は平家方にあったが、敗走中の頼朝(木の洞に隠れていた)をわざと見逃し、印象づけておいて、のち源氏に帰順した際ちゃっかり自分を売り込んだ。以来頼朝の懐刀として暗躍。源平合戦では軍目付として九郎義経とともに行動したが、型破りな天才肌義経と堅実秀才型景時、この両者が相性いいわけがなく、毎回ケンカばっかり。そのため景時は何かにつけて義経の悪口を頼朝に報告し、それが兄弟不和の一因になったとも。そもそも彼は義経だけでなく御家人衆すべての不審な動きを随時報告し場合によっては誅殺するのが仕事。だから当然鎌倉きっての嫌われ者だった。頼朝死後、御家人衆はすぐさま連署状をつくって景時とその一族を鎌倉から追放。重ねて追討軍を派遣、駿河国狐崎にて交戦の末、梶原一族はとうとう全滅した。

梶原景季かじわらかげすえ
ゲジゲジオヤジの息子
享年39(1162〜1200)
桓武平氏・景時の嫡子

通称:源太景季
役職:左衛門尉

父景時と同じく歌が詠め、風雅を解する粋な武者。一ノ谷合戦では箙に梅の枝を飾って戦さに臨むなどなかなかの伊達者である。頼朝には父ともども信頼され、九郎義経の叛意を探る任務も担った。親父がゲジゲジ景時だけにその息子である彼のことも何だかヤな奴に思えてしまうが、義経が体調不良で会えないというのを疑わなかったり(頼朝と景時は「そんなの仮病にきまっとる」と決めつけた)佐々木高綱との馬争いのエピソード等から、直情でだまされやすい好青年の素顔もうかがえる。ただやっぱりキャラクター的にはあいまい。小説やドラマでもイジワルだったりイイ奴だったり、解釈はいろいろ。

上総介広常かずさのすけひろつね
遅れてゴメン坂東一の大豪族
享年?(?〜1183)
桓武平氏・上総国の大豪族

通称:八郎 上総介

保元・平治の乱では源義朝に従ったが頼朝の旗揚げに対しては用心深く、しばらく形勢を見てから二万余騎の大軍で参じてきた。しかし彼の遅参を頼朝は怒り会おうとしなかった。広常はその仕打ちに「これこそ大将の器」とかえって感じ入り、あらためて忠誠を誓った。しかし坂東有数の大豪族という自負から驕慢なふるまいが多く、ついには謀反の疑いをかけられて、源平合戦の始まる前に梶原景時に誅殺されてしまった。そのやり口も、双六の最中の不意打ちというヒキョーっぷり。しかも、彼が本当は無実であったことがほどなく判明する。何ともうかばれない。

河越重頼かわごえしげより
あまりに不運な義経の舅(しゅうと)
享年?(?〜1185)
桓武平氏・秩父氏(坂東八平氏)の一族 武蔵国入間郡河越の荘司

河越葛貫別当能隆(畠山重能の従弟)の子
妻:比企尼(頼朝の乳母)の次女→のち頼家の乳母に
娘:九郎義経の正室
通称:太郎

頼朝挙兵当時は畠山とともに平家方についていた。帰順したのちは妻が頼朝の乳母の娘だったこともあり信頼を得た。のち頼朝の仲介で娘を九郎義経の正室として嫁がせた。これは義経を見張るための頼朝の計らいだったのだが、義経謀反の際には義経の「縁者」ということで理不尽にも河越氏にまで累が及んだ。所領を奪われ、領主の重頼は誅殺。しかしさすがに「あんまりだ」と思われたのかどうか、のち(1225年)三男の重員に、河越氏が代々補されてきた武蔵国留守所総検校職が与えられた。

熊谷直実くまがいなおざね
熊谷直実 世渡り下手な直情男
享年68(1141〜1208)
桓武平氏・北条氏流(姓・丹治) 武蔵国大里郡熊谷郷の豪族

通称:次郎/法名:蓮生
平治の乱では義平に従い、のちに平知盛に仕えた。源氏の旗揚げ当初は平氏方として頼朝と対戦するが、やがて投降した。平家追討戦の一ノ谷にて息子と年恰好の似た平敦盛を泣く泣く討ち取ったエピソードが有名。それがもとで世をはかなんで出家したといわれているが、領地問題でもめてキレてヤケッパチになった、というのが本当の原因。ほかにも、流鏑馬の的立の役をいやがったために所領を没収されたりと、その依怙地さゆえに何かと立場を悪くすることの多い男。不器用だけどまっすぐな、ほほえましいキャラクターである。

熊野湛増くまのたんぞう
源平どっちにつくかはニワトリまかせ
享年69(1130〜1198)
熊野別当職・第二十一代別当
/本拠:紀伊国西牟婁郡田辺(現和歌山県田辺市)
父:第十八代熊野別当湛快(「尊卑文脈」では源為義の実子)
一説に武蔵坊弁慶の父とも
通称:熊野別当 田辺別当 田辺法印

もともとは平氏の味方で、平治の乱の折も清盛に危機を知らせたりした。だがその後は去就を明らかにせず、源平合戦を傍観する姿勢を取る。彼の率いる熊野水軍は海戦において絶大な威力を持っていたので源・平どちらもが味方に引き入れようと躍起になった。やがて彼の息子ともいわれる弁慶の交渉が功を奏したか、闘鶏で占った結果が源氏勝利だったからか(白い鶏と赤い鶏を戦わせて白いほうが勝った)、結局源氏に与し、壇ノ浦の合戦に参戦して大いに活躍した。後年(1195年)、上洛してきた頼朝と対面した。

河野通信こうのみちのぶ
無敵伊予水軍の頼れる長
享年68(1156〜1223)
伊予国風早軍河野郷の豪族

父:河野通清/妻:北条時政の娘/孫:一遍上人
通称:四郎/幼名:若松丸/法名:観光

源平合戦に際して鎌倉方に従い、壇ノ浦では水軍を率いて参加、源氏の勝利に貢献した。のちには奥州藤原氏討伐戦にも参陣。しかし承久の乱では後鳥羽上皇側について敗れ、結果、所領を没収されて奥州平泉に配流されてしまった。

佐々木ファミリー
佐々木秀義ささきひでよし
平家に屈せぬ近江の源氏
享年73(1112〜1184)
宇多源氏の裔・近江国佐々木氏の祖

子:太郎定綱、二郎経高、三郎盛綱、四郎高綱、五郎義清、六郎厳秀
妻:源為義の娘(定綱、盛綱、高綱の生母)
姨(おば)のひとりが藤原秀衡の妾

源為義の猶子だったこともある、源家とゆかりの深い近江源氏の長。平治の乱ののち息子らをつれて東国に落ち、豪族渋谷重国のもとに身を寄せた。その折伊豆で流人生活をしていた頼朝を世話するべく息子定綱・盛綱らを派遣した。頼朝旗揚げの際にも定綱盛綱のみならず次男の経高や当時京にいた四男の高綱をも呼び寄せてサポートした。しかし、秀義自身は1184年近江国での伊勢平氏討伐戦の折に戦死し、息子らののちのちの活躍を見届けることはできなかった。

佐々木定綱ささきさだつな
頼朝流人時代からの忠臣
享年63、4(1142〜1204、5)
秀義の長男

子:長男家綱、四男信綱
役職:検非違使左衛門尉 近江守護

平治の乱ののち父とともにふるさと近江を捨てて東国に落ち、流人時代の頼朝に仕えた。壇ノ浦合戦後に晴れて近江の守護に任ぜられた。建久二年(1191年)地頭領で強訴が起き息子らともども流刑となるが、後白河法皇崩御による恩赦で二年後にはふたたび近江に戻ってくることができた。

佐々木経高ささきつねたか
割りに合わない!鎌倉なんて見限るぞ
享年?(?〜1221)
秀義の次男

役職:中務丞

平治の乱ののち父や兄弟とともに東国に落ちた時、渋谷重国の養子となった。頼朝旗揚げの際には重国が平家方についたため立場が難しくなるが結局頼朝に味方した。その後兄弟ともども幕府にて優遇されたが、頼家の治世になるとイイカゲンな頼家のために所領問題でいろいろひどい処置を取られた。そのためか、承久の乱では後鳥羽上皇側について戦った。そののち敗れて隠れていたが、ついには自害して果てた。

佐々木盛綱ささきもりつな
非情の処置も武士なればこそ
享年?(1151〜?)
秀義の三男
(初名・秀綱)
役職:左兵衛尉 伊予・讃岐・越後守護

平治の乱ののち父や兄たちとともに東国に落ち、相模国波多野に住んだ。仁安元年(1166年)、頼朝の配所に行き元服、盛綱と名乗り、以後、兄定綱とともに忠実に仕えた。木曽・平家追討戦ではおもに範頼の軍にあった。瀬戸内でのモタモタ消耗戦の折に、道を教えてくれた漁師を口封じのため斬り殺したというちょっと(いやかなり)ヒドイエピソードが有名。頼朝の死去により出家して西念と号し、上野国磯部に陰栖。しかし延暦寺の堂衆を征伐したり城長茂を討ったりと、その後もさまざまな功績を残した。

佐々木高綱ささきたかつな
佐々木高綱 ヒキョーで悪いか!宇治川トップランナー
享年55(1160〜1214)
秀義の四男

通称:四郎 /法名:西入
役職:左衛門尉 備前・安芸・周防・因幡・伯耆・日向守護

平治の乱ののちは幼少のため京都吉田に残されて叔母に養育されていた。しかし頼朝旗揚げにはるばる東国まで駆け参じ、兄らとともに勇ましく戦った。その功もあってか源平合戦においては名馬・生食(いけずき)を頼朝より賜る。いつも九郎義経の陣にあり、宇治川では梶原景季とのデッドヒートの際舌先三寸で景季をたじろがせ、先陣を勝ち取った。しかし戦後、おのれの恩賞に不服を抱き、建久六年(1195年)家督を息子重綱に譲り、出家する。高野山に入り、西入と号した。

土肥実平どいさねひら
人情派エリート武士
享年?(?〜1191)
桓武平氏・相模国足柄郡土肥郷の豪族

通称:土肥次郎
役職:備前・備中・備後三国守護(播磨・美作も)

頼朝流人時代からの信任厚い家人。一ノ谷合戦では九郎義経の陣を離脱した梶原景時の代わりに侍大将として加わるなど、フォロー上手の男でもある。ほか、生け捕りにした敵将平重衡を親切に扱う情け深さもある。壇ノ浦後には平宗盛の護送もつとめた。義経都落ちのあとは京都の治安維持を任された。疑り深い頼朝にすら終生信頼され続けた、稀有な武将である。

土佐坊昌俊とさのぼうしょうしゅん
むかし忠義者やがて殺し屋
享年?(?〜1185)
東国渋谷氏の出身か

本名:渋谷金王丸(土佐坊昌俊は法名)

源義朝の郎党で、平治の乱の折には常盤御前のもとに主の死を知らせにいった。そののち主の供養のために出家、興西金堂の衆徒となった。頼朝が旗揚げすると鎌倉に駆けつけ忠誠を誓う。源平合戦には、おもに範頼の陣にあった。頼朝と九郎義経の仲がわるくなると、御家人衆の誰もがいやがった義経暗殺の任務をなぜかすすんで受け、文治元年(1185年)十月京都に赴いたが、逆に返り討ちに遭い、あっけなく捕われて六条河原で処刑された。

那須与一なすのよいち
那須与一 扇の的を射抜いたルーキー
享年64(1169〜1232)※没年諸説あり
北家藤原氏の末流・山内首藤氏の一族・下野国那須郡の豪族

兄:十郎為隆ほかたくさん
通称:与一 余一宗隆

若き弓の名手。屋島合戦にて平家の船に掲げられた扇の的をみごと射落としたエピソードが有名。その褒賞に、丹波国五箇庄・信濃国角豆庄・若狭国東庄宮川原・武蔵国太田庄・備中国檜原庄を賜った。しかし梶原景時の讒言がもとで越後に配流されてしまう。のちに出家して、西国へ戦死者を弔う旅に出た。その途中、摂津国(現神戸市須磨区)で没したといわれる。(別説もいろいろ)

畠山重忠はたけやましげただ
畠山重忠 武士の鑑!怪力好青年
享年42(1164〜1205)
桓武平氏・武蔵国男衾郡の豪族 畠山荘司

生母:三浦義明の娘/妻(正室):北条時政の娘/従兄:和田義盛
通称:荘司二郎/幼名:氏王丸

頼朝旗揚げ当初は平家方にあったが、のち帰順。清廉潔白なさわやか青年で頼朝に信任され、奥州征伐や頼朝上洛ではつねに栄誉ある先陣をつとめた。なおかつ戦場ではさまざまな怪力伝説も残した(宇治川合戦で部下を対岸に放り投げたり、一ノ谷の崖を馬を背負って降りたり)。平家追討戦ではおもに九郎義経の陣にあった。頼朝に義経暗殺を頼まれてもきっぱりバッサリ拒んだあたり、義経に理解を示していた数少ない坂東武者のひとりだったといえよう。しかし頼朝死後、北条時政により謀反の疑いをかけられ、息子重保ともども誅殺されてしまった。

比企能員ひきよしかず
叔母は頼朝の乳母・妻は頼家の乳母
享年?(?〜1203)
藤原氏・武蔵国比企郡

叔母:比企尼(頼朝の乳母)/妻:頼家の乳母/娘:頼家の妻(長子一幡の母)
一説に妹は頼朝の庶子島津忠久の母
通称:藤四郎
役職:右衛門尉 検非違使判官 信濃・上野守護

頼朝の乳母比企尼の甥であり養子でもあることから頼朝に信頼され、つねに幕府の中枢にあった。当初は鎌倉警護についたが、平家追討にあたって範頼軍に加わった。奥州合戦では山道大将軍をつとめるなど、武人としても活躍。しかし頼朝の死後、頼家の乳母夫であったことから北条氏と対立、だまし討ちに遭い一族もろとも滅ぼされてしまった。

三浦義澄みうらよしずみ
北条氏最大のライバル?
享年74(1127〜1200)
桓武平氏・相模国三浦郡矢部郷の有力豪族

息子:義村(右兵衛尉、左衛門尉、駿河守)/甥:畠山重忠
通称:三浦新介 三浦荒次郎

三浦一族は、源頼義・義家の代からの源氏の家臣。頼朝挙兵に参じんとするも豪雨のため渡河できず、さらには当時敵方にあった畠山重忠との激戦もあり、安房にてようやく頼朝の勢と合流した。平家追討戦では範頼とともに西海に赴き、壇ノ浦では九郎義経に協力して勝利に貢献した。頼朝死後も幕府の重要ポストを占めた。そんな彼ら一族には打倒北条の思惑がなきにしもあらずだったようで、曾我兄弟の仇討事件、源実朝暗殺事件の裏には三浦のクーデター計画があったのだとの説もささやかれている。

和田義盛わだよしもり
ちょっと短気な侍所別当
享年67(1147〜1213)
桓武平氏・相模国三浦郡和田の豪族

叔父:三浦義澄/従弟:畠山重忠
通称:小太郎
役職:侍所初代別当

源氏挙兵当時から三浦一族とともに頼朝についた。その際上総介広常への使者に立ったり常陸佐竹氏を討ったりと功績があったため幕府の侍所別当に任じられた。平家追討戦ではおもに範頼のもとにあったが、はかばかしい戦果をあげられないのんびり範頼軍にキレ「鎌倉に帰る!」と騒いだりした。九郎義経の首実検に梶原景時とともに立ち会った際にはそのむごたらしさに涙する人情家の一面も。頼朝死後は頼家のフォローを任されていたにもかかわらず、実朝を担ぐ北条氏に加担した。しかしその北条氏とはつねに対立関係にあり、建保元年(1213年)、北条義時と三浦一族の奸計にはまり挙兵、あえなく敗死した。